人生に挫折なし! 私がチャレンジし続ける理由
いまだセブから帰国できずにいます。
今回の新型コロナウィルスの対応で当初の予定から3回、フライトキャンセルとなりました。
そして最後に至ってはセブ市のフィリピン国内における対応の変化で帰国できませんでした。
26日のフライトで帰国する留学生の最後のメンバーの一人となりました。
自分の子供のような学生たちと一緒になぜ私が今セブ島にいるのかお話ししています。
長くなるのでお時間ある時にどうぞ

職場の友達
何もできない4姉妹の末っ子でした
私のおいたち
私は中学校の校長を務める地方公務員の父と、社会活動やボランティアが大好きな専業主婦の母のもとに生まれた四人姉妹の末っ子でした。
【素直な人間に育ってほしい】
という母の願いをこめて『なお』という名前に命名されました。
確かに願い通り素直でしたが、とてものんきな子供でした。なんでもお姉さんの後をついていけば良いと考えていて自我が無かったような気がします。
なにごともできなくてOK
同性姉妹なので、姉たちが甘やかしてくれることはなかったのですがそのせいか、私は自分自身の中に「何一つできない、トロくさい」が自分自身だと思っていました。
子供の頃って近所の公園で、姉と一緒に団地内の子供たちと遊ぶのですが姉たちのレベルでは私の面倒を見るのがいやだったので何をやるにも”おみそ”扱いをするようになりました。
覚えていますか?”みそっかす”扱いです。
割と浅田真央さんなどに代表する、アスリートって妹や弟が成功するんだけど、姉兄弟に負けずに頑張ったりする努力を子供のうちからつけている結果なのですが、私のように姉がたくさんいて、全員にめんどくさがられて育つとそれを良いことにまったく頑張らなくなります。
子供のうちから、頑張らずに嫌なことはやらないようになりました。

一番ちびのかわいこちゃん
さぼることを覚え、土俵にあがらなくなった子供時代
そして、身体能力も低くて足もおそかった私は体育の時間をさぼるようになり、また細かい作業も嫌いだったので折り紙とか手を使う家庭科の時間はすぐお腹が痛くなり、保健室にいく子だったようです。
末っ子は可愛がられて「甘やかされる」のではなく、私は単なる【甘ったれ】でした。
一番長く続けたバレーボール
少女バレー期
小学校に入ってから、姉3人がバレーボールを地元のチームでやっていた流れで、何も考えずに始めました。
身体能力もなければ、当時のスポーツにある努力と根性も嫌いな、あまったれた大野家の末っ子の登場に誰も期待はしていませんでした。
姉たちが早くから、4,5年生から活躍していたにも関わらず6年生になって数合わせでチームメンバーになれたかんじでした。
仕方なく続けたバレーボール
正直、私のレベルで中学でやってもついていけないと思っていました。
進学する中学のバレー部は、鬼の体育会で上下関係も厳しく当時の体育会では当たり前の軍隊なみの練習、文化でした。
中学では続けることはないと考えていたのです。
そんなある日、学校帰りに幼馴染のバレーも上手、学業も学年1、持久走も男子を押さえてNo.1の(不思議と顔も可愛い、パーフェクト学校のアイドル)さっちゃんに
【なおちゃん、中学にいっても一緒にバレーボールしようね、そして多摩高(地元で学力1位)でもバレーして、東大に行ってバレーボールして日立に一緒に日立に入ろうね】
と言われました。
当時、Vリーグが始まる前の実業団の中でNo.1チームの日立のことです。
衝撃的に驚いたので、忘れられません。
学校一の女の子が、一緒に1番の学校に行ってバレーボールを続けようというのでした。
【なんで東大行った後に日立なん・・・】
という突っ込みも忘れてただただ驚きました。
当時の私は、帰ったら今日のご飯のおかずしか興味なかったので。
さっちゃんが何を言い出したのか、全く理解できませんでした。
全国大会に参加、県選抜にも選ばれた中学時代
その後も何も考えずにバレーボールをしていました。
能力のある姉たちは、自分の行き場を探して別の競技を選んで、けがをしたり経験も足りずに結果を残していません。
私は、相変わらず練習(特に筋トレ)も嫌いでしたがバレーボールを続けていました。
ある日、顧問の先生が「なほちゃんは基本ができていてフォームがキレイだから新入生にフォームを教えてあげて欲しい」と言われました。
また、「身体能力が低いが、ボールをよく見て最後までボールを追えている、誰よりもスペースを知っている」ということを言われました。
なるほど、シチュエーションは仲間を指導する際に引き合いに持ち出されて、小ネタ感はぬぐえぬものの自分にも良いところがあるのだと驚いた記憶があります。
先輩方に指導された際には「ベテラン」「エコプレイ」と言われました。
1度言われた言葉を使うと
「凄い」選手ではなく『上手い』選手である
少しの労力で最大限の成果を出している・・・・
とも言われました。
バレーボールは他のスポーツとは少し違います。ゴールを決めにいくのではなく、相手のコートの
空間にボールを落とせばよいというスポーツです。
実は身体能力は必要のないスポーツなのではないかとひそかに思っていました。(プロはもちろん別です)
自分では高さ、速さ、パワー何一つなかったので相手のフォーメーションと弱い部分を攻めることしかしていなかったのですが、それがこのような評価になりました。
スパイクも相手ブロッカーを利用してアウトにするような、正統的なパワーでは勝てないので、自分自身で勝てるパターンを見つけて動いていました。
人生を変える出来事
物事に対する向き合い方の変化
そんな、私が【スポーツ性貧血】になりました。
成長期の女性に多く、スポーツとしてはバレー、バスケ、マラソンなどが多いと知られている
病状です。
自覚症状は中学1年の終わりごろ、2年に上がったときの健康診断の血液検査で発覚しました。
その時もバレーに対する執着はなかったので「あぁ、選手生命も終わりだね、楽しく球拾いだな」と考えていました。
私には変わった考えがあって、バレーボールが好きで来ている子は準備や片付けを嫌っていたにもかかわらず私は大好きでした。
というよりも、生まれつきの面倒くさがりなのでさっさと準備や片付けをして、先輩に怒られることも指示されることもなく快適に練習することにフォーカスし誰よりも早くコートに行き、誰よりも早くコートから帰っていました。
だから、プレイできなくてもやることはいっぱいあるし別にイイや。
辛い練習からも解放されてラッキー♪くらいでした。
初めて感情が揺れて自分自身で考えたこと
そんな私を顧問の先生は見捨てなかったのです!
色々な理由があるのはわかりました。
①彼女が全国大会にチームを出場させることが出来るのはこの年しかない、初めてのチャンスだった。
②3年で入れ替わる生徒を育てるより、べースのある人間を活かした方が効率が良い
正直、私でなくてはいけない理由はないのですが私を起用してこのメンバーで全国大会を狙う
と決めて、治療を受けさせて、体力を消耗させず活用する方法を採用しました。
「素直が売り」ではありましたが、思春期の多感な女の子である私は大いなる疑問を持ちました。
健康で、常に一生懸命練習に励んでいるチームメイトがいるではないか。
私はそんな好待遇を受ける一流の選手ではない。
と。
私のチームワークや勝てる組織に関する強い想いはこの時に芽生えたものでした。
中学2年生の春です。
スポーツ選手の育て方、チームワークや勝てる組織について
その年の結果です。
①学校始まって以来、女子バレボール部全国大会出場
②神奈川県の選抜メンバーに学校のメンバー全員が選ばれる
という快挙を得ました。
全国退化は初の北海道に活かせてもらい観光旅行気分をご褒美で味わうことができ、選抜大会は、代々木の体育館で大勢の観客の中でエキシビジョンマッチに参加することができました。
誰が喜んでたかというと、顧問の監督だけでした。
もう、この時期には貧血は治っていましたが、彼女の名声を得る道具に使われた感があり
あまりうれしくなかったのを覚えています。
これは、本当のチームの作り方ではないのではないか、メンバーを成長させる指導ではないのではないか、とばかり考えていました。
社会人になって
社会人としてのキャリアスタート
この時も、まだ自我はありませんでした。
父が東大出身、また昭和一桁ということもあり常々、「女の子に学歴はいらない、東大以外の大学なら行く必要はない」と言っていたため、私は大学進学を選びませんでした。
これは、末っ子だけが持つ記憶らしく、長女には「絶対、多摩高校に行って東大に行け」と指導していたようです。
長女は優秀で能力は足りていたのですが「絶対にいきたくない」と言ったため、その後父は何も子供に言わなくなったようです。
ちなみに姉の断った理由は、仲のいい友達とほかの高校に行きたかったという、きわめて中学生の女の子らしい理由でした。
末っ子だったので、自分の部屋が欲しいという理由だけで独り暮らしを初めて、生活できなくなり副業でアルバイトを始めました。
そこで、人生を決める出会いがあります。
初めて褒められた 飲食業界でやっていこう
バレーボールを10年間行って得た経験。
「長く続ければ結果がでる」
というものでした。
私は姉のように身体能力が高くない、結果、他の競技に転向することが出来ずに同じものを
10年やり続けた事で結果に結びついた。
「ヒトより結果が出るのが遅いのならば倍動けばよい」
というものでした。
副業のバイトを始める時に、面接で毎日出ますよと答えたのはそのためです。
まずは不器用でトロくさい事がわかっているので物量でカバーしようと。
そこで、不思議な結果が出ます。
大学生だったさっちゃんと一緒にアルバイトをそこでしました。
バレー部の主将で地元で一番の進学校多摩高校に入って顔も可愛い学校のアイドルです。
向き不向きがあるとはいえ、アルバイト先のおかみさんに
さっちゃんは華があるけど、それだけね。なほちゃんは、絶対に自分で店を持った方が良い。この商売に向いているやるべきだ。
と言われたのです。
独立すべきなのか会社へ所属するべきなのか
その言葉を頼りに、独立の為に働きました。
最初は小さな店ばかり、魅力的なオーナーさんの下で働きました。
寿司屋、バーテンダー、コーヒーショップ
などなど。
寿司屋は私も若くて良く解らなかったけれど業界では一人者の方だったようです。
中目黒にあるガード下の、プロ野球選手を目指していて腰痛であきらめてすし職人として独立したおやじさん。
職人気質で難しい方ですが、「ヒカリモノが好き」といったことからとてもかわいがってもらいました。
その後、であったすし職人の友達に伝説の職人だときいて驚きました。
飲食業界でいろいろチャレンジして8年くらいたったころ、会社員として大きなライブハウスのバーテンダーとして働く事になります。
会社員として得た事
そこで、今思えば、ブラックかつ個人商店でインチキではありますが、会社組織を知ることがでいました。
はじめてですが、飲食業で4つのスキルを身につけました。
①勤怠管理
②原価計算
③PL
④販促
今まで、小さな店で人間力で集客していて商売の構造を知らなかった私は面白くてしょうがなかった。
また、ライブハウスでなにが面白かったって、今まで観客側だった自分が、一緒にイベントを創る側にまわれた事。
20代、バレーボールであり余った体力を持て余して週末のクラブ活動や、夏休みの野外フェス(フジロックの始まるずーっと前)に出かけていた私が、あの、DJと一緒に働ける!
その喜びに毎日が溢れていました。
遊びでもなんでも一生懸命やっていれば、そのうち結果になる!
その時に気づいたことです。

バーテンダーの頃、小曽根真氏来店・・・
本当に仕事が面白くなる30代から
会社員って誰のもの?
30代は会社員としてさらに激動でした。
ライブハウスは、自己破産し社長も自ら命を絶ってしまいました。
当時、六本木ヒルズができてホリエモンが出てきてフジTVや球団買収の話が一般人の私にも耳に入るような時代となり、企業は誰のものかという論争が一般的になってきた時期だと思います。
営業は続きましたが、取引先とは同じように取引はできなくなり、私たちの給与もとまりました。
仕事内容が楽しかったけれど、会社勤めや企業の責任など考えて新しい道をえらぶことにしました。
私の企業人としての成熟期
その後、夜の仕事から昼の仕事に移りリハビリ生活をしながら本当に転機となる職に就くことになります。
今から8年前、「これが最後の転職になる」
と40歳目前で地方再生事業の温泉ホテル運営会社に入りました。
この会社に入った目的は信じてはもらえないと思いますが、地方でゴルフにチャレンジしたかったというショーもない理由です。
初の昼間の仕事は、販売で百貨店のテナントに入っていました。
今まで営業時間通りに仕事をすること自体がなく時間に余裕があったのでジムに通ってそこでヨガやゴルフを始めます。
しかし、ゴルフ人脈などなく営業のおじさんがするスポーツという認識だったのでグリーンでプレイするイメージが持てませんでした。
販売と接客は似て非なるものがあり、なじむことが出来ず、接客業界を探していくうちに見つけて拾ってもらえた会社へ転職ができました。
おかげさまで当初の目的は入社2年目にしてとっとと赴任先で達成しました。
女子プロツアーで使われる賢島CCでもプレイすることもできたのです。
転職するなら成長産業へ
多くの事を学びましたが、やはり転職は好きな仕事ももちろんですが私のように、今いち自我もなく得意分野もなく、ゴルフをしてみたかっただけの転職でもとんとん拍子でキャリアアップできたのは何より成長産業に身を置いたことが大きいです。
初心者でも、どんどん仕事を任せてもらえて機会を十分に与えてもらえる、打席数がおのずと増えていく環境であるという事です。
また、誤解を恐れずにいうと時差を活用することも大事です。
東京で成功していることを地方にもっていく。
日本で成功しているモデルをアジアへもっていく。
もちろん、ローカライズも必要ですが、もともと私たちが学んでいるビジネススキルや
フレームワークも海外から来ているものを落とし込んでいる訳です。
そのようなビジネス展開をしている会社であれば、当時はすぐに伸びていきました。
そして、8年が経ち私も現場にいられない立場になりました。
めざすところは変わらなくとも、現場にいたくても現場は後進に譲らなくてはいけません。
役員目指して、少ない椅子の取り合いをしている場合ではありません。
業界に入る時、最後の転職でもう先はない!
と思っていた私が、何も迷わずに会社を飛び出して自分で立つことを決めた瞬間でした。
退職後、初の海外留学へ
それでもやっぱりまだやりたいことよりやりたくない事しかない私
いったん、社会へのアピールも含めて海外に出ました。
日本にいると、同業者からのお誘いやドリームキラーの脚を引っ張る人の声が入ってくるのが解っていたので語学の時代ではないと知りつつも、語学学校をネタに半年海外に行こう!
と決めて2019年10月末に日本を旅立ち今に至ります。
結果、ECQになり海外でリモート体験をできてしかもオンライン授業やテストまで受けられて、多くの可能性と変わりゆく社会の手ごたえを得られて前職では得られない体験ができて本当に感謝しています。

ルームメイトの卒業式
一人になったらできないことばかり
突然学生になりましたが、実は会社員時代から始めていたパートタイムの仕事も持ちながら、自分で立つためにきたので、年末からブログを開始して現在に至ります。
会社員時代は専門部署の販促チームやIT部門に指示してさせていたことを1人ですべてやらなくては行けません。
自分で作業をすることで今までできていた視点から離れてしまって、混乱してしまったり新しく出会う仲間に優しく教えて頂いたり、まだまだ挑戦は続きます。
セブ市でECQという名の都市封鎖の中で、運がよくコールセンターの仕事を頂いたので住居、収入に困らず滞在させて頂きました。
しかし、あと4日もすれば日本に帰ってブログに専念し新しい自分の本当のチャレンジを形にできます。
もう言い訳はできません。帰ったらやることすべてやるだけ!
4日後は実は私の49回目の誕生日。
まだ仕込みに1年はある!
50歳になり、人生100年時代の折り返しの時に笑顔でいるために今があります。
今はすべてゼロの状態
私だけでなく、新型コロナウィルスのおかげで皆、新しい社会へ向けて一緒に取り組むことになりました。
先が見えないから、今までと同じことをするのではなく動いたもの勝ちです。
勇気をもって動けば道は開ける。
死ぬこと以外かすり傷
・・・ってよいタイトルだと思っていましたが、著者は今手痛い傷を追っているようですが(笑)
そして人生は続く
アイキャッチ画像に使った大好きな映画のタイトルですが、これが座右の銘です。
なにがあっても大丈夫。
生きていれば人生は続きます。
新しい時代を一緒に作りましょう。
帰国を前に長めのプロフィールを改めて。長々、お読みいただきありがとうございます。
コメント
読んでいて
「それでどうなっていくの?」と
ワクワクしながら読ませて頂きました。
バレーボールで「凄い選手」ではなく「上手い」選手。
「ベテラン」「エコプレイ」
こういった事を自然と身につける才能に感服いたします。
素晴らしいと思います!
yuubishyouten/ゆうび商店さん
コメントお寄せいただきありがとうございます。
当時、まだ子供で仲間が友達だったので周りを気にしてしまって、また目の前の「凄い」に憧れたり、素直に自分の強みをみとめられなかったので、余計な情報、感情を排除して自分を、認めらる事が出来るとイイな、という事をこの歳になりやっと気づくという😅お話です。
お言葉、とても励みになりました。